勝利という芸術の達人
マインドゲームに限らず、世間が彼に抱くイメージは多々ある。自分の評判に対して彼が「面白い」と感じてしまうものが2つあるそうだ。「面白い」とは言っても、大声を出して笑ってしまう「面白い」ではなく、いらだちを感じ、髪をかきむしりながら叫ぶ「面白いじゃないか!」のほうが感覚的には近い。
1つ目は、彼が短期政権しか担うことのできない監督だというイメージだ。イングランドのサッカー界では、ファーガソンやアーセン・ヴェンゲルのように、一人の監督が10年以上同じ現場に立ち続けることが、成功を生む秘訣だと長く信じられてきた。ただ、これはワールドスタンダードではない。例えばグアルディオラは、「3年たてば選手は監督の言葉に耳を貸さなくなる」というイタリア流の考え方に賛同している。ユヴェントスは今夏、3年連続でセリエAを制したアントニオ・コンテと協議離婚した。クラブと監督の双方が「次のステップに進むには変化が必要だ」と考えたからだ。
だが、イタリアであれスペインであれ、長期的なプロジェクトや理念、一貫したチームマネージメントの重要性を語る指揮官はいる。いや、サッカー界全体が、それが可能であるならば100年続く王国を築いてくれる監督を待ち望んでいる。
それを探したのがファーガソンが去った時のユナイテッドだった。彼らは「今」だけでなく、「明日」をも見据えてくれる監督を探し求めた。若い才能を育て、現在に負けないほど明るい未来を築いてくれる指揮官を。そして、ファーガソンの推薦もあり、デイヴィッド・モイーズが選ばれた。新監督にタイトル獲得歴がなかったのも気にしなかった。ファーガソンを招き入れた1986年に始まった奇跡の再現を期待したからだ。
結局、モイーズという選択は大失敗に終わった。未来を見据えるのは素晴らしいが、足元が見えていないのでは何にもならない。ただ、その結果を別にすれば、あの時にユナイテッドの検討リストにさえ載らなかったことは、モウリーニョにとっては屈辱だったのではないか。4つの国でリーグ優勝を果たし、2度のチャンピオンズリーグ制覇を誇る監督が無視されたのは、その実績が「すぐに消え去る一時的なもの」と見なされたからだ。
モウリーニョはどのクラブでも素晴らしい成績を残すが、すぐに燃え尽きてしまう。チェルシーは3年と少しで、インテルは2年で、マドリーは3年でクラブを離れることになった。タイトルをもたらし、記録を打ち立て、ファンの夢を実現させたが、長続きはしなかった。このことについて、モウリーニョはどう自己分析しているのだろうか?
火の出るような反論が来るだろうという予想に反して、「私も変わろうとしているんだ」という言葉が返ってきた。「それは私の状況が変わったからかもしれない。今は、どの国が一番好きで、どのリーグが一番好きで、どこに住んで仕事をしたいかを公言できるようになった。私は大きな仕事を果たすために、クラブを渡り歩き、国境を越えてきたが、今は判断を下せる立場にある。今の私は、自分が大好きなクラブで働きたいと思うようになった。そしてこのクラブに長くいたいと考えている。若いメンバーを率いて、自分とクラブの将来を築きたいんだ」
もっとも、自分が短期政権しか担うことのできない監督であると認めたわけではない。短命というレッテルをモウリーニョは「面白い」と薄ら笑いを浮かべて否定する。「過去8年のチェルシーを見れば分かるはずだ。私は3年半しかここにいなかったが、その後もずっとチェルシーは私のチームだった。毎年、当然のように新しいメンバーが加わるが、3回のリーグ制覇はどれも同じメンバーによるものだった」
彼の言葉は続く。「昨シーズン、私が去った後のマドリーも同じだ。メズート・エジルとギャレス・ベイルの入れ替えを除けば、私のチームと全く同じ。インテルもようやく高給取りのベテランの放出に踏み切ったが、私が去ってから2年間は同じチームだった。新しい選手を獲得しても、結果的に私のチームをそのまま使うほうが良かったということだろう。私の作るチームは決して短命ではないんだよ」
では2つ目の「面白い」に移ろう。次はモウリーニョの戦術について。創造性に欠けており、卑劣で、守備偏重という意見だ。これはグアルディオラとの対比として何度も語られてきた。規律と創造性が高いレベルでミックスされたペップ・バルサと、反則まがいの守備で耐えつつ一発のカウンターに賭けるモウ・マドリー。世間の見方は、前者が善で後者が悪である。真偽のほどは別として。
グアルディオラは「サッカーという美しいスポーツをさらに高める聖人」と見なされるが、モウリーニョがそんな評価を受けたことはない。相手から畏怖されるが、それは単に強いからで、サッカーの美学という観点から認められることはない。モウリーニョは試合を「殺す」才能を持っている。相手の魅力を封じ込め、首根っこをつかんで締め殺す。これを尊敬に近い形で称賛するのは同業者である監督だけだが、それらにしても「多彩、正確、効率が良い」といった精度に対する賛辞であって、芸術性を称えるものではない。
モウリーニョはついに我々の期待に応えた。「面白い」と言ったのだ。
「私のチームが守備的であるという意見は、正しいか正しくないか以前に理解できない。私のチームはゴール記録を打ち立ててきた。私のマドリーは121得点を奪い、勝ち点100を稼いだ。プレミアリーグの最多勝ち点記録を持つのは私のチェルシーだ。嘘も繰り返し流されると真実になってしまうのだろうか? いや、それを本当のことだと勘違いしてしまうのは愚か者だけだ」
ならば、モウリーニョのチームの特徴とは何なのか? 本人に問いかけると、彼は「スペシャル・ワン」と言い放ってみせた時の表情になった。「グレートなチームだよ。攻撃的か守備的か、なんて話はナンセンスだ。私のチームは勝つために作られたチームなんだ。ボールポゼッションが高いほうが勝利に近いと考えれば試合を支配する。失点しないことで勝てるケースであれば守りを固める。常にチームが勝つための手段を見いだし、完璧に実行する。それが私のチームだ」
しかし、世間がモウリーニョを守備的と見なすのには、何か理由があるのではないか。「たまに普段より守備的に戦うこともある。勝つためにそうすべきだ、という時だ。それが人々の記憶に残ってしまう。私のキャリアの中にも、そういった試合はいくつかあった。例えば1人少ない状態で長い時間を戦わなければならないケースだ。インテル時代のバルセロナ戦を思い出してほしい。世界最強のチームを相手に、65分間も10人で戦った。守備に軸を置いて戦うしかないだろう」
あの試合はまさにイタリアサッカーの美学の極地と呼ぶべきで、カウンターのささやかな気配だけは残しつつも、あとは守りに守るという試合だった。「サミュエル・エトオがサイドバックとしてプレーするのを見て、みんな『守備的だ』と思ったのだろう。その一面だけを切り取れば、確かに守備的だ。しかし、チャンピオンズリーグの準決勝で退場者を出し、まだ1時間も戦わなければならない。私はそこで勝つための方法論を選択した。それだけだよ。忘れないでもらいたいのは、その2週間前のサン・シーロで何が起きたかだ。インテルはバルセロナを圧倒し、3-1で完勝した。結果ではなく内容と言うのであれば、5点取っていてもおかしくない展開だった。誰でも自分に都合の悪い記憶というのは忘れてしまうものだ。2試合トータルで考えれば、私のインテルは決して守備的ではなかったし、バルサを倒すにふさわしいチームだった」
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