運命を操る達人

昨年の6月10日、スタンフォード・ブリッジの会見場に久々に足を踏み入れた時点で、すでに言葉は決まっていたはずだ。10年前の監督就任会見で発した、「スペシャル・ワン」という有名なフレーズは咄嗟の思いつきのように見えたが、マスコミを巧みに操る術を学んだ今回は、どんな質問がぶつけられるかを完璧に察知できていたことだろう。当然、集まったメディアが「あなたは今でもスペシャル・ワンですか?」という問いをぶつけることは容易に想像していたに違いない。

昨夏の時点で、モウリーニョの輝きはわずかながら鈍くなっていた。だからこそ、「今でもスペシャル・ワンですか?」という質問が出るのは当然だった。

レアル・マドリーを率いるまで、彼のキャリアは成功の連続だった。ポルトではUEFAカップを制し、翌年には大番狂わせのチャンピオンズリーグ制覇を果たした。そこでアブラモヴィッチの目に留まり、チェルシーに迎え入れられると、プレミアリーグとリーグカップを2回ずつ、そしてFAカップも制覇した。インテルでは就任2年目にリーグ、国内カップ、チャンピオンズリーグの3冠を達成。簡単に監督の首を切ることで有名だったマッシモ・モラッティ会長に、「戻りたくなったらいつでも戻って来てほしい」と言わしめた。

ところがマドリッドでは困難な状況に身を置くこととなった。3年間で国内リーグ2位、優勝、2位の成績を収め、チャンピオンズリーグで3年連続ベスト4進出を果たしながら、失敗の烙印を押された。もちろん、正当な評価が何であるかを定義するのは簡単ではない。バルセロナが一時代を築いていたことを考えればなおさらだ。しかし、それがマドリーの現実なのだ。

モウリーニョの退任会見で、フロレンティーノ・ペレス会長はこう話した。「凡人にとっては2位でも十分だろうが、マドリーは違う。我々の歴史は勝利とともにある。今シーズンの結果に及第点は与えられない。我々も、そしてモウリーニョも、それだけ基準が高いのだ」

ポルト、チェルシー、インテルを退団する時、モウリーニョは栄光に包まれ、サポーターに崇拝されながら去っていった。だがサンティアゴ・ベルナベウを後にする時、彼はキャリアで初めてその手腕を疑われた。3年間でバルサに2度タイトルを譲っただけではなく、求心力を失ってもいた。イケル・カシージャスやセルヒオ・ラモスとの緊張は慢性化し、モウリーニョがマドリーの象徴であるカシージャスをチームから外すと、亀裂は分裂に発展した。

その是非はファンの間でも意見が分かれた。ウルトラスの多くはモウリーニョを支持したが、その他はモウリーニョに敵意を抱くようになった。マドリーとバルサのライバル関係を、それまで以上に有毒なものへと変えたという批判もあった。マドリーが勝ち続けるのなら悪質なライバル関係も許容すべきと言う者も、勝てなくなるとモウリーニョに背を向けた。

レアル・マドリーでのモウリーニョ評価を簡潔にまとめると、こんな感じだ。しかし、本人は断固として失敗を認めない。物議を醸した3年目を無視して、目の前の敵をすべてなぎ倒し、史上初の勝ち点3桁と121得点という数字でリーグを制した2年目、「レコード尽くめのシーズン」と呼ばれた年に焦点を持っていこうとする。確かにその時は、セルヒオ・ラモスとの確執やバルサとの対立について、誰も不満は言わなかった。

「まあ、レアル・マドリーは世界最大のクラブだろうからね」とモウリーニョ。「だろう」という言い方にトゲを感じる。「確かに最も偉大な歴史を持つクラブだ。マドリーの歴史には、超一流選手や監督が名を連ねている。だが、レアル・マドリー史上、一番強いチームを率いた監督は誰だ? 私だよ。100ポイントに121ゴール。史上最強のバルセロナを倒して優勝した。だから私しかいない」

あえて3年目のシーズンについて質問した。彼がどう反応するかが見たかったからだ。「最後のシーズンも私は全力を尽くした。よって後悔は何もない。私の成績を何と言おうが自由だが、私には私の観点がある。私は記録尽くめのシーズンに王者になった。マドリーのクラブ史に名前を残したんだ」

今ならばそう言えるだろうが、レアル・マドリーを離れたその瞬間に同じ言葉を口にしていれば、まるで言い訳のように聞こえていたはずだ。それは数カ月が経過した時点、つまりチェルシーの監督就任の時でも変わらなかった。だから彼は質問を先読みして、自己演出を用意しておいた。
「あなたは今でもスペシャル・ワンですか?」
「私はハッピー・ワンさ」

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