ヌコノのようになりたいと思った
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90年W杯でカメルーンのベスト8進出に貢献したGKのヌコノ。彼の存在が《GKブッフォン》を誕生させるきっかけに

▼サッカーを始めた頃はMFだったというのは本当? どうしてGKになったの?
ライアン・ストーン(Eメール)

ブッフォン(以下B)──本当だ。子供は皆、ゴールを守るよりもゴールを決めたいと思ってサッカーを始めるものだからね。少しの間だけど、ストライカーをやっていた時期もあった。悪くなかったよ。GKになったのは1990年のワールドカップ(W杯)を見たのがきっかけだった。W杯でカメルーンの試合を見てトーマス・ヌコノのようになりたいと思ったんだ。ヌコノはカメルーン代表でとても重要な選手だった。

▼お父さんはヨーロッパジュニア選手権の銀メダリスト、お母さんは砲丸投げのチャンピオン。お母さんはボールの投げ方を教えてくれた?
ベン・ドライヴァー(Eメール)

B──父、母、2人の姉、みんなスポーツ選手だった。でも砲丸投げが得意だったのは母ではなく父のほうだ。母は円盤投げが専門でイタリア記録を持っていたよ。完全なスポーツ一家だったし、それが俺の成長の助けになったのは間違いないと思う。家族のみんなが、スポーツのことを真剣に考えている。家族のサポートを受けられるというのはとても重要なことだ。

▼子供の頃のヒーローは? 誰が最高のGKだと思う?
フィオナ・メークピース(Eメール)

B──さっき話したヌコノを筆頭に、ヒーローはたくさんいた。ヌコノのチームメートのロジェ・ミラも好きだったな。カメルーン代表の試合を見るのが好きだった。テニスもよく見ていたよ。イワン・レンドル、ステファン・エドベリ、パトリック・ラフター……本当にたくさんのヒーローがいた。

▼パルマ時代、デビュー戦の相手はミランだったね。当時のミランにはジョージ・ウェアやロベルト・バッジョ、デヤン・サビチェヴィッチがいたけど、今と同じように自信満々で大声を出していた?
マッシモ・ロビンソン(Eメール)

B──素晴らしい日、素晴らしい体験だった。夢が現実になった瞬間だ。いい試合だったと思う。あのミランを相手にゴールを許さなかったんだからね(試合は0-0の引き分け)。DFを怒鳴ったかって? そうしたと思う。それがGKの仕事だからね。

▼2001年にユヴェントスへ移籍した時、4500万ユーロ(当時のレートで約56億円)という高額の移籍金が物議を醸した。金額を聞いた時は驚いた? GKにそんな大金を払うのは信じられないという人に何か言いたいことは?
レオン・アダムス(Eメール)

B──俺はすごく満足していた。俺にとっては何の問題もなかったよ。移籍金が桁外れだったと言われるけど、ユーヴェが俺のプレーを見て「こいつはやるな」と思ってくれたってことさ。良いチームに良いGKは欠かせない。良いストライカーと同じぐらいの価値があるんだ。時にはGKの移籍金が高額になることもある。まあ、500万ユーロだったとしても俺はユーヴェと契約したと思うよ。その額でパルマが納得したかどうかは分からないけどね。

▼10年ほど前にうつ病で苦しんでいたそうだね。ピッチに立つのが怖いと思うぐらいだったとか。そのことを知っている人はいた? 試合を休まなかったのはなぜ?
グレアム・ダウリング(Eメール)

B── 知っていたのは自分だけだ。誰にも言わなかったからね。なぜなら、少なくとも最初はうつ病をオープンにする機会がなかった。他の人に話していいものか、それも分からなかった。でも、徐々に友達に話した。チームメートやものすごく親しい人だけにね。それで、これは解決できる問題だってこと、治せる病気だってことが分かり始めた。ゲームを休まなかったのはチームメートや俺を頼りにしている人に対して大きな責任があると感じていたからだ。彼らをがっかりさせたくなかった。責任を投げ出すことが受け入れられるとは思えなかったんだ。

▼そういう態度がうつ病に変化を与えましたか?
FourFourTwo

B──そう思う。そうだったと思いたいね。もちろん、精神分析医に診てもらうことも役に立った。でも、一番大きかったのはやはり友達やチームメートの助けだった。

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